気が向けば一言【挨拶と悪戯】№191・我が市における子供をつかってのいたずらについて。
2020/06/17 17:38 下書き掲載
2020/06/17 23:03 追記。23:11 一番上Twitter追記 23:13微修正 23:15レイアウト修正など
○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1273256576892076032?s=20
https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1273256576892076032?s=20
我が市のみ。
①2017年迄10年子供集団の悪戯
見知らぬ子でも挨拶あれば「おはようございます」「こんにちは」と当方
だが、彼らの要求挨拶以外では道をふさがれた時も。
②2017-18正常
③2019以降、👧👦無視。当方も。
○最近、何かにつけ👧👦見させようと。
誰の指揮か。
言葉の機能はヘレンケラーの所で解説。
【以下は2017年Twitter掲載内容】
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10月11日
17-273-1.挨拶よりも道交法遵守を。 誰が計画したのか挨拶挑発が過去多数あった。 「いってきます」「帰りました」に名を借りた攻撃! (何年か前であるが)一番ひどい時には歩行者専用道路をブロックされ、私も自転車を降り歩いている以上歩行者でも、歩くのを長時間完璧に阻止された。
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10月11日
17-273-2。数十人に挨拶の返答を強要された。数十回挨拶をした。それは構わないが、歩行者専用道路では他の歩行者の進路妨害をしてはならない。集団で数列となり歩行者専用道路ブロックは法律違反。遊びで道交法違反を誰が指示・計画したのか。本日は道交法上は問題ない。過去の回想にすぎず
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10月11日
17-273-3。私の幼き頃。 近所の人・顔見知りには「行ってきます」、知らぬ人には「おはようございます」。 帰りましたと「今日は」も使い分け。 地元ならば「行ってらっしゃい」類、北海道で子供に会えば「おはようございます」が私の習慣。
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10月11日
17-273-4。地元外の子に「行ってきます」「帰りました」連続言わせ、地元の子には一切言わせないという誰かXの指示が過去の実話。 しかし、過去のは挨拶問題でなく、道交法違反を含む攻撃として、誰か・Xの計画的指示であった。 道交法違反まで指示は本末転倒。学校も教育の本質忘却か。
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10月11日
17-273-5。それでも、私は挨拶を無視したことはない。 地元・顔なじみなら「お帰り」類、遠方ならば「おはよう」「こんにちは」類と。 子供はペットやオモチャではない。 人格を持つ人間として。 暇時に挨拶論は論じる。 過去の本質は誰か大人Xの計画的悪戯。人命・道交法も無視して。
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10月11日
17-273-6。挨拶論は後日。おはようございます、こんにちはは丁寧な言葉で、その逆(揶揄語)ではない。言葉のカジュアルとフォーマルの使い分け、及びアメリカ型ファーストネーム方式論はいずれ学術的に各国の実態と共に紹介。勘違い多数。但し過去のは挨拶論でなく首謀者Xの計画的指示攻撃
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10月11日
17-273-7。でも地元の人か・どうか分からない。それが本質で今の社会の問題もそこ。他方誘拐・犯罪防止上知らない人とむやみに親しげに…注意指示。知らぬ人が相手から「お帰りなさい」と一人歩きの女子児童に近づいてきたら。されど挨拶も、知らぬ人への対応は。後日回答も私には下記が本質
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10月11日
17-273-8。
17-273番台は本日ではなく過去の回想。 在住の村界隈では「帰りました」類ゼロ、村をはずれると全員「帰りました」類。 それも三十年間。だが、問題の本質は挨拶の種類ではなく、273-1や2及び該当挑発指示者X。Xの正体は?挨拶問題以外の危害甚大・膨大でもある。
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10月11日
17-273-9。挨拶問題はブログネタがなくなった時に言葉のキャジュアルとフォーマル、米国式ファーストネーム論で本格記述予定でいたが、突如(催眠型)で本日断片型で記述強制される。強要は営業妨害、書くネタ本格記述時の手の内を見せればインパクト減る。本日の気が向けば戯言№53も同様
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10月11日
17-273-10。①10/11、年金証書の(単なる)問い合わせ郵便・配達記録付きで郵便局に行く。②同時に、この日フィクサーME続編メモ記述予定。①の関係で妨害予想、同時に②も絡む。しかし、食事乱れ、睡眠時間不足等より、迷惑千万。②は一切できず、10/12に持ち越し。
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2020/06/17 23:00 追記
言葉は機能。
相手と「どういう関係になりたいか」を操作するもの。
私は子供とは双方礼儀正しく、その上で、(知らぬ子とは)距離を置きたい。
そこで丁寧語(ていねいご)が多い。「おはようございます」とか「こんにちわ」などである。
キャジュアルは原則使用しない。
心の距離を置くためである。
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学校でどう教えているか。
「あいさつをしましょう」
「見知らぬ人とむやみに喋らないように」
ではないのか。
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分かり易く言えば、全校生徒に見知らぬ人をみれば「おっちゃん、帰ったで」と言わせてご覧。
かわいらしい👧(女の子)が見知らぬ男性に、見知らぬ地で言えば犯罪被害に遭う確率は高い。
「おっちゃん、帰(かえ)ったで」と言えば、通常の人ならば何か会話をしてくる確率が高いからである。
知らぬ人には、礼儀正しい上で、(対応関係で)距離をおくことが重要である。
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詳細は、拙著『求め続けて』12章ヘレンケラーの所に追記をして解説をしよう。
言語とは何かを。
英語学習でも、日本語でも同様である。
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学校の教師宛に記しておこう。
「言葉は機能である」。Aをインプットし、Cという結果を期待する…である。
Cを達成するためにBという語ではなく、Aという語を使用するのである。
学校教師宛に解説を慈善事業でしてもよいが、砕いての解説は各教師が自分で子供にすること。▽
当方はすることが山積している。
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ちなみに、水俣市で出会った環境学習で来ていた子供達が「こんにちわ」と全員で言えば、私も「こんにちわ」と。
双方すがすがしいのみであった。
昔の体育系ならば帽子をとって挨拶をしていた。
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他方、よく顔を知っている近所の小母さんには「帰りました」である。そして二言、三言会話をした。言葉は機能である。当然キャジュアルな言語を使用した。何故ならば日常的な付き合いがあるからである。勿論、顔も名前も知ってもいる。
キャジュアルとフォーマル、言葉は機能である。
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顔を覚える、日常的な付き合い抜きでは、礼儀と距離を置く言葉が重要である。
同時に言葉は意味もある。
大阪で生徒が行ってきますと言われても、「どこに行くのかわからないため」、行ってらっしゃいとは言えない。中学生ならば学校をサボってパチンコにいくかもしれないのに。
勿論、子供はペットでもない。
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17-273-4の如く、私の村(大字・小字)では誰にも「行ってきます」「帰りました」を言わさず、村を一歩でもでるや知らぬ子が「帰りました」である。私がこんにちは、と返答すれば、ときには17-273-1の如くときもあった。
誰が指導したのか。