【徒然・私事】№134:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う。

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【徒然・私事】№134:長期危害連続―心当たりなし。友は人間違い、と言う。


【更新履歴】2019/04/03 3:18から公開も、誤字脱字・不適切な表現があれば起床後に修正予定。

 


私が本格的に他人から危害を受け始めたのは1987年、若しくは1984年夏からである。しかし、未(いま)だに危害は続く。正確には危害ではなく、刑事犯罪被害である。

前者から計算すると32年目となる。後者から計算すると35年目となる。既に人生の半分を超える期間に亘(わた)る危害である。

ところが、そうした危害を長期受ける心当たりが全くない。
そこで、余りに不自然・不思議なので、2010年に友人に言ったことがある。
「誰か勘違いをしているのではないか」
友人は、首を振った。
そして自信ありげに答えた。
「勘違いではなく、人間違い(ひとまちがい)」と。
そのときには全く何のことか分からなかった。

最近、2000年前半に、高校時代の恩師の一人と出会ったことを思い出した。
仮にM先生としよう。
M先生が、私を見るや、「お~、お前、○○だったな。」
私「いえ、違います。私は○○ではなく、浜田隆政です」
M先生「おまえは○○だろう」
……
M先生には教科も受け持って貰(もら)っており、高校当時、結構目立っていた私を間違えることは考えられない。

そして、2017年に東京へ行ったときに、人間違い・勘違いの連続であった。
現時点で、これ以上、書いても雲を掴(つか)むような話であり、私は未だに誰が誰と誰を勘違いし、35年に及ぶ危害の内、どの部分が人間違いなのだろうか、とよく思うこの頃である。
現時点では、未だに、意味がよく分からないため、この話は今はここまでとし、私が長期に亘(わた)り、人に恨まれる原因がないことだけを記しておこう。


【生まれついての性格】
人が良い。親切である。冗談好きである。
訳の分からぬ某大手予備講時代を除けば、女性とは余り縁がなく、安全パイという形で女性友達も接してきた。青年期まではどちらかと言えば、女性とデートよりは、男性友達と格闘技類をする方が楽しかった。

そして、一度友達となった女性とは相当長期に亘(わた)り信頼関係がある。
自宅監禁されるまでは、男女ともに友達は多い。

学業成績等は余り重要視しておらず、その方面でも、人から嫉妬類を受けにくいタイプであった。(某大手予備講講師時代からやむを得ず、仕事として、超本格的に勉学をせざるをえなくなっただけである。私は良く言う。「どこで道を間違えたのだろうか」と。)


幾つか臭わされている原因らしきものに対して簡潔に記しておく。

①政治対立。
私はもう四十年ほど、どんなに厳しく見ても35年以上は党派中立・宗派中立を貫いている。その趣旨の宣言もしている。大きなきっかけとなった話は拙著『旅に心を求めて』(Kindle、KOBO各百円)の中の第二章・広島への旅で書いている。
よって、そうした話は無縁である。

②部落解放運動の分裂に巻き込まれた。
これも心当たりは一切ない。

私は高校時代は、柔道部に所属しながら、民主主義運動・人権運動に携わっていた時期がある。部落研活動にも参加した。
だが、当時(1968年)は、部落解放運動は分裂をしていなかった。
さらに、分裂後も、私が参加していたのは、地元での子供会活動や地域のおじいさん・おばあさんの話を聞くことなどであった。

西宮市教育委員会嘱託時代には校外学級担当の仕事をしたが、これらの仕事は解放同盟中央本部の方からの依頼のはずである。H中学1年と3年、T中学1年と3年を担当したが、最終的には、生徒はよくなつき、私のアパートへ毎週来る子や、別れ前には箕面に何人かの生徒をつれていったこともある。(教師二人と生徒十人くらいであったであろうか。)

③岡映(おか・あきら)氏と知り合い。
これは下記に既に記したように、単に近くの食堂が同一であり、その食堂のママさんから、当時(女子高校の)生徒指導問題で悩んでいた私に、そうした生徒指導に精通した人がいるということで紹介されたにすぎない。{今考えれば、女子高生が若い教師=私をからかって遊び、それが多少助長したのであろう}

岡映氏は大昔、(分裂前の)部落解放同盟副委員長であった。分裂後は正常化連議長をされた。だが、私が知り合ったのは単に、高校生の指導相談であり、それ以上は同一の食堂での食事仲間でしかない。

岡映氏の講演は、私の高校時代には、何度も聞いた。それは私が所属していた学校が招聘(しょうへい)した関係で、講演をされたのを聞いたにすぎない。そうした人は私の高校全部どころか、岡山県の相当数の高校に及び、該当者は数万人に及ぶのではなかろうか。
私が高校一年頃(1968年頃)は、岡映氏はNHK教育テレビでも部落問題について論じられていたため、それを聴いた人は数百万人かもしれない。
では、何故(なぜ)、私だけに。

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然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)

○http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5666

徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)

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そして、当時の活動は学内での学習会、文化祭に向けての動き、全国高校生部落問題研究集会への参加(私は高校三年秋まで泊まりがけで参加)、個人的には子供会などへの参加、夜に老人達の昔話を聞く会への参加などである。
こうしたことで人の恨みを買うことはない。
分裂していてすら恨みを買うことはない。

なお、私が高校三年生のときに、八鹿事件が起こるが、当時は長姉が危篤続きの関係で、私は当時はノータッチとなっており、尚更、恨みを買うこともない。
高校三年の頃に、高校担任などに誘われて、某企業就職差別事件の確認会に参加したことがあるが、これとてそれを見学することは重要な勉学である。
なお、苦学生、バイト三昧であった私は、後には参加・見学できず、ただ子供会・校外学級などに参加しただけである。


④岡映氏との再度の出会い。
高校を卒業し、大学を出て、教育委員会で校外学級などを担当し、次に大学院に進学し、大学院修了後某女子高校の講師となり、女生徒の指導問題で悩んでいた頃に、食堂のママさんが「先生、(生徒指導問題などに詳しい)良い人を知っているので、会ってみられ」で紹介されたのが岡映氏であった。

岡氏の職場のすぐ近くが(食堂の)ママさんの店で、その店のすぐ近くに私のアパートがあったからである。

ちなみに、この店のママさんは、私が高校時代に部落研究活動や民主主義活動をしていたことなどは全く知らなかった。岡さんを紹介されたのが1982年とすれば、ママさんが私が高校時代にそうした活動をしていたことを知ったのは多分1998年頃ではなかろうか。
そのときのママさんの言葉「まあ先生(私を指す)、そうした運動をされてたの。私は何にも知らなかった…」である。
否(いな)、未だに詳しくは知らないと思う。

岡映氏と食堂・病院・交通機関で出会う人や口をきく人全部に対して敵対心を持つなどは聞いたことがない。


では、何故、私が三十年以上に亘り、危害を受け続けるのであろうか。全く、分からない。

女性問題?
その件は再度後日記そう。

ただ、次の点を明確に記しておく。
某大手予備講の女性とは、誰にも指一本触れていない。
誰とも職場以外で会ったこともない。
また職場で会うときは、常に、職員が多数いる前、生徒が質問などに来る場所、更に、天井には(監視)モニターがあったと思う。そうした場以外では会ってもいない。
親睦会は講師は講師だけ、事務の人は事務の人だけで別々である。
講師には、事務員の住所などは一切教えない。
いわば、銀行の受付にいる女性とお客さんが、銀行の勤務中に大勢の人のいる前で会うのと同様である。

従兄弟(いとこ)が直(じか)に会って…と行っていたが、住所・電話番号は原則として講師には教えない。女性職員帰りは集団下校に近い。手紙すら手渡すのは通常は無理である。勤務時間中の銀行の窓口女性に手紙を渡すようなものである。では何故手紙を渡せたか…次回記せば(O_O)であろう。通常は間に上司をいれねば不可能である。

また誰も銀行の受付女性に手紙を渡すことなどは誰もできない。口頭とは手紙以上で、口頭で言えば、客(某大手予備講ならば生徒・職員)が一斉に振り向くであろう。周りの衆のどんちゃん騒ぎとなろう。

講師と事務員の結婚もあったようであるが、一般には、上司か誰かをいれて見合いを設定してしか無理な状況であった。

更に、どうでも良いが、私の容貌を見て、女性にもてると思うか・否か、正直に答えよ。これ一つで回答はでている。(私の顔・容貌を見て分からぬのであろうか(*^▽^*)。

ましてや、職場を辞めて、上記のケースで三十年以上被害が続くとはナンセンスである。ちなみに、女性職員にも信望があり、私とも口をきいていた某先生(当時の京都校校長・年賀状も辞職後もやりとりをしていた)などは、面白くて笑い回っていた。
そうした状況で退職後に被害が三十年以上及ぶとは理論上も、現実的にも理解できない。

ともかくこの続きは次回記そう。
こうしたつまらぬことでも妨害が多いため、次回は下書き段階から公開とする。

2019年4月3日 | カテゴリー :