№56予定:友人・福井正尚君追悼を兼ねて―住民対立工作疑惑と友人追悼:9/25記述(10/14正式公開)

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№56:友人・福井正尚君追悼を兼ねて―住民対立工作疑惑と友人追悼(10/14正式公開)

※2023/10/05 記載
Twitter(X)やFacebook等のSNSに掲載したものを収録:
収録理由→SNSが廃止されたり、止めたりしたとき対応でデータ保存のため。
現時点では下書き段階。後日、チェックをして正式公開予定

2023/10/12 14:05目立つ誤字脱字のみ修正

2023/10/14 正式公開


(September 25)【追悼】福井正尚君
経営問題を早く知ってれば、撮影等で背面から応援したのに

今回、追悼を兼ねて写真掲載する。
2015/11/4撮影4枚(全て合成はしていない)

親友の生まれた杉神社も時々撮影しとるで。
#林野高校 時代は面白かったね。
1977年 #美作市 江見で君と飲み、水野君が死んだと聞き😲、今度は君が死ぬとは.

#岡山県 #美作市 #福井病院 #福井正尚

(2023/10/12 13:45追記)

経営状態…は私の思い過ごしで、大きな病院のため、建てるときのローンか何か…と後に、誰かが臭わしていました。私には詳細はわかりませんし、プライバシーのため、知る必要もありません。ただ、友の冥福を祈るだけです。また、可能な範囲での協力云々は誰でも思うことにすぎませんし、事実です。

写真は全て、クリック一度でパソコン画面大に、二度クリックで巨大に。

美作市福井病院:2015年11月4日撮影:写真№ 15-039-019

美作市福井病院:2015年11月4日撮影:写真№ 15-039-016

美作市福井病院:2015年11月4日撮影:写真№ 15-039-016

美作市福井病院:2015年11月4日撮影:写真№15-039-016


(September 25)【友人】福井正尚君

本年死亡で驚く。
彼とは1977年🐻#早大 大学院に行く前に、美作市江見の友人宅で飲んだ。
福井病院が破産手続き開始決定と聞き二度びっくり。

経営問題あれば言ってくれれば協力できる所はしたのに。
🏥病院変更は無理でも、📸等を何度も取りに行ったのに。
関連文書3枚

(全文も念のため掲載)
🚺(女性)ではないが福井病院の写真も処理。
一時、🤡が何故福井病院に行かないのかと不可思議な暗示が。
ききたければ口で聞け。
🤡の病状上、自律神経と十二指腸潰瘍は医師は変更できぬ。
何故、今の主治医かは私の勝手問題であるが、書いてあげれば二系統ある。

一系統目。
🤡が何故福井以外の病院へ。🤡小学校の頃面白い医師がいた(赤髭の如し。🤡祖父の主治医。福井病院来る以前の湯郷にあった青山医院である)。
その息子(娘婿)が後の🤡私の駆けつけ医となる。
その更に息子さんが今の主治医である。
主治医のおじさん(小学校元校長)とも🤡は📷写真サークルが一緒であった。
1997年3月に6人相乗りで、植田正治写真美術館に行った写真の公開を考えたが、スミレ様撮影で著作権問題から🆖。
絵風加工にしても🤡(私)のみ見るは可能も公開は改竄(かいざん)問題となり、余計にまずい。スミレ様に金だして再度プリントを依頼し、誰かに送るのみは可能も面倒でしない。その場合でもHPや論文掲載時にはスミレ様の許可なしでは無理である。写っているのが私だけでも同様である。肖像件以外に著作権問題がある。

二系統目。
🤡は頑健であり、高校以降医者知らずが事実。
駿台講師時(多分、1984年頃)に十二指腸潰瘍の疑惑で、幾つかの病院を探す。
たまたま、岡山市からの帰路見た病院がひょっとしてあの爺さん医師と関係かと思い立ち寄り、そのまま時折行く。

 正直に書けば、痛みがあっても他の病院の薬ではおさまらぬ。だが、この病院の薬ではおさまった。後に知った(10年ほど前頃に知った)が、その薬は頓服(痛み止め)であった。1984年頃は知らなかった。そこでこれは名医と、…そして定着した。なお、医師によれば昔の痛み止めは症状悪化を警戒して出さぬことが多いことは、それから20年以上たってしった。ただし、痛み止めといっても、1982年~87年の間で余り回数はなかろうが正確には覚えていない。ともかく、この医師の薬でしか治らぬと当時考えたのが定着するきっかけとなった。
1985年蕁麻疹のときもこの病院で世話になる。
駿台事件では診断書も書いてもらっている(1987年頃)。駿台マイク問題と喉関係等の証人ともなる。これが今の病院・青山病院である。駿台辞職直後に医師が息子さんと両方で経営されていた。

息子さんになってからは、十二指腸潰瘍関係では頓服は処方されていない。
次に体調悪化が1989年11月である。
その直前に今の主治医・青山医師が美作中央病院か田尻病院…かどちらかで入院の紹介状を書いてもらうこととなっていた。ところが、紹介状をとりに行く当日未明に大吐血となる。
そこで、🤡の父・浜田耕治が、自分の主治医(奥さんが父の教え子、主治医は🤡の長姉の実家と親戚と思われる)に電話し、強制的に原田医院(湯郷)に入院の羽目となった。🤡に選択権はなかった。※長姉の母の実家が美作市豆田と聞いているが、正確には知らない。

その後1993年迄原田病院に定期的通院も、1993年再度約36時間に亘る断片的な大吐血となる。
原田医院に取り合えず入院したが、原田医師が「当病院(原田医院)では対応は無理。美作中央か田尻のどちらかへ移送」と。🤡は口もきけぬ状態で「先生にお任せします」で原田医師が救急車要請で田尻病院へ入院。翌日内視鏡で60日入院と。
 その後は1994年までは田尻病院に通院していたが、検査恐怖症で田尻病院の主治医窪田先生に正直に相談すると「それでは元々の主治医青山医師に戻られ…」たならばのアドバイスを受け、青山医院へ紹介状を書いていただいたと思う。(後に一日入院で窪田先生にはその後もお世話になったこともある。年賀状も数年前まで交換をさせていただいていた。)

青山医院通院中にポリテクカレッジ岡山(現能開大中国)問題なども相談させていただいた。同大学校辞職へのドクターストップは青山医師である。当然、能開大問題での証人ともなる。
簡単に言えば、青山医師の父は駿台事件の時に病状相談の証人(残念ながら亡くなられたが)、今の青山医師は能開大問題と病状の証人でもある。
だが、本来、そうした解説を人にする理由はない。

と言う二系統のみ。ただし、それを知りたい人間は口で聞けとなる。
ちなみに、福井正尚君は整形外科専門であり、自律神経失調とか十二指腸潰瘍の専門家ではない。
彼とは小学校・中学校・高等学校時代の友人ではあるが、内科関連は無関係の上に、治療の流れと訴訟問題の流れがある。
誰がどのようなデマを飛ばしているかは不明であるが、聞きたいことはルールに基づき、能開大交渉立会人・新免昌和元美作市議会議員を通して直に聞いてこいとなる。原則は文書で。

福井正尚君との美作市江見で飲んだ思い出などは後日記そう。
突拍子もない所から何のデマだろうか。

🤡の母と福井君とで何か…と湯郷薬局などが。
何かとは何かを口で言え。🤡に分かる訳がなかろう。
🤡は「温泉療法などがあり、リハビリの関係で福井病院にせよ」と2008年前後に母を説得したことがあるが、母が言うには「我が家から原医院には市営バスでいけば、原医院前で降りられ、帰路は市営バスが我が家の庭先まで送ってくれて便利が良い。タクシーと同じ」と。
我が家は貧困である。
🤡は内臓以外はまだ健康であったが、後に一度足を痛めたが、そのときは母が原医院に入院中に色々母の件で相談させてもらった医師で、しかもその頃はまだ母も同病院に通院していた頃ではなかろうか。それならば母の件も聞けるということで原医院に行ったのみであろう。(伯母も原医院に入院中だったかもしれない。伯母の見舞いに行った覚えもある。)

あと一度は、最近であるが、奇妙な形で痛みが起こるので、MRI撮影を考えて、原医院に行ったが、医師が母の主治医とは違っていた上に、MRIではなく単なるレントゲンとなり、当てが外れた(福井病院にはMRIはない)。

斯様(かよう)なプライベートなことを何故、長々書かされるのであろうか。そちらの方がよっぽど分からない。

福井君とは終始友好関係にあったが、それだけに、今のような干渉状態では、彼との仲を壊すという策略も警戒して、今の状況では友人関係の病院は避けるしかない。人間関係破壊工作、対立工作があったからである。
美作市位田中田でも、徹底的にやられたのが、我が家の身内関係である。従姉妹との家では嫁さんと…、ボスの家ではボスの勘違いを利用してボスと、遠縁のZ家ではZ家の小母と(後には息子のZ3)と、Z家と同類程度の遠縁では事情を知らない大阪の娘さんと…と、同じ組合の通常の家以上に、仲違い・分断工作をやられていたため、親しい人は避けるという習慣ができている。当然、同窓会も原則として全部お断りとなっている。
実際に徹底して、白土三平を強調して分断政策をやられた。親しい家ほど、分担の強度は酷(ひど)かった。

なお、福井君が学生時代などに住んでいた所が、私が岡山市庭瀬に住んでいたアパートから300メートルの所であることを知り、何かの縁と思った程度である。
 また、母が福井病院に内臓関係で2010年に入院したが、2014年に福井病院での姫路の暴力団、拳銃たてこもり・自殺事件が起こる。
姫路…と言えば、どうしても、我が家の住所番地を70年近く使っていた、浜田稔・千代子・正典家を思いだす。正か、何か、また人間違いで…は考えすぎであろうか。
なお、福井君と浜田正典氏は一つ違いであり、湯郷小学校・林野中学校時代は共に学業・スポーツはずば抜けて目立っていたが、性格はかなり違っていた。後者(福井正尚君)は人を立てるタイプであり、敵は比較的少なかった印象がある。

どうせ福井君のことを書くならば、もう少し楽しい話の方が、福井君の供養になろうと思うが、催眠でつまらぬことを書かされた

2023年10月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA