【⚔:謀略】№42・謀略の嵐―1997年1月の交通事故(催眠と工作)

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(更新履歴)2023/08/10 20:58掲載

2023/08/12 16:07追記。

新一言number42・謀略の嵐―1997年1月の交通事故(催眠と工作)


①カーブで徐行目的(時速15㎞目標=徐行の原則)のため、ツバメ急便の道路の拡張箇所に車を止め、うしろの方に見える限りの車を抜いてもらう。最後は連続二台であった。最後が広瀬様の車。
→もし抜かせていなければ事故は回避されたが、私の行動(徐行目的で車を止め・抜かす)を事前に知っていたようである。。

②ツバメ急便を出て予定通り徐行。所が、カーブでトラックがセンターラインオーバー。それを契機に(今考えれば)催眠状態となり、(クラッチの隣の)アクセルを明確に踏んでいたことが、事故当日午後から不思議で仕方なかった。踏み間違えではなく、「このヤロー」型怒り状態でアクセルである。
ところが事故後には私はハイ気分となりニコニコしていた覚えがある。→催眠状態であろう。そうでなければ(能開大労基法違反・契約違反起因の)精神疾患も捨てきれない。ただし、写真の如く僅かな距離で=発車15 km未満→徐行(15m㎞)→カーブでアクセル→車が見えるやブレーキのためスピードはしれていると推定している。

③カーブを曲がるや駐車中の車が見え、即ブレーキを踏む。

私の車は止まりかけ、ぶつからずに止まると分析した。ところが、一端止まりかけた車が今度はアクセル抜きでゆっくりであるがまだ動く。誰かの車への細工と当日昼から分析した。

とっさに対向車線に追突回避で出ようとした。その途端に車は止まり、対向車線には出ていない。交通量が多い時間ならば対向車線にでれば対向車との正面衝突で、人の死亡を含める大事故となっていた=(工作者による)殺人未遂罪。
→ポリテクカレッジ岡山(能開大)へ行くと同僚A講師(私の早大院先輩)が、私が「車はブレーキで止まったはずなのに、途中から動いた」と言うと、「そうだろう、そうだろう、そうなんだ」と意味ありげに笑っていた。
隣にいた蒲田先生もクスクス笑われ「水俣帰路の天草で財布をなくされ、誰がみつけましたか…同様です。その内訂正がきますがな」。発見者は現地の警察官。紛失過程は奇異であった。

【上記までの写真を添付】(写真はいずれも、クリックでパソコン画面大、二度クリックで巨大)

1997/7/22 14時頃撮影:旧ツバメ急便の箇所からスタート:97-029-02A-fM:

1997/7/22 14時頃撮影:旧ツバメ急便の箇所からスタート―1:写真番号 97-029-01A-f

1997/7/22 14時頃撮影:カーブ手前:97-029-03A-fM

1997/7/22 14時頃撮影:カーブ手前:97-029-04A-fM

1997/1/13 事故直後現場で確認撮影:カーブ手前:97-002-30-fM

1997/7/22 14時頃撮影:事故現場逆方面から撮影:97-029-20A-fM


三台が写真位置に駐車。
一番前に駐車していたのは、うっすら見えた記憶では女性であった。ひょっとすると下倉敷在住の人ではないかと思う。
一台目=🚺Aさん(下倉敷?在住)。二台目=🚹Bさん、三台目=広瀬健二様(当時、広瀬住建を運営。私の母校・林野高校の後輩のようである。)

⑦全員が車からでてこず。玉突き衝突をおそれ、車の移動を呼びかける。

広瀬様は📱携帯電話中で事故に気づかれていなかった。窓をノックし事情を話す。

⑨会話の前に玉突き衝突回避で必死。道路の一番左か少し広い所に移動を…とそれをお願いする。

⑩🚹Bさんはケラケラ笑い、出てこられ、「これを見ろ、オレの車は無傷。オレは関係ないから行くぞ」と。大笑い

⑪その後、広瀬様が警察(勝英警察署)に一緒に行ってほしいと言われ、当然私も行く。所が、一番前の車の人が途中で消えていた。この人も一種の鍵のため同伴が必要であった。

勝英警察署(現・美作警察署)では、私はまだ催眠状態であったが、怒りとは逆に楽しくて仕方ないという感情とされていた。天草警察署にもウィスキー2本と、現地の写真(RPプリント2Lを4~5枚)と挨拶文を送付していた関係で、警察官はお友達感覚にされていた。

⑬警察官と私と広瀬健二様の会話。
事故現場を訪ねられたが、私は場所現場の状況は覚えていたが(場所は尾原付近と催眠ですり込み被害を受けていたようである。ともかく)地名が出てこなかった。実際には我が家すぐ近くの下倉敷であった。事故後に現場撮影は上尾原で撮影。保険担当のJA職員(担当者は我が村の隣人)にも尾原とつげる。後に、事故直後に写したポジの写真が現像されて、それを見て下倉敷であったことを知り、驚く。
→倉敷=ポリテクカレッジ岡山所在地、林野=旧名が倉敷、この年に我が家の倉を潰す。

次に車の時速何㎞か。私は尾原と勘違いさせられており「(時速制限が50kmなら) 48㎞」だろうかと言えば、警察官が「お前が悪い」と私を指さされた下倉敷カーブは当時推奨速度は30㎞であるが、私はそれでも危険で15㎞を目標としていた。15㎞ならば事故は100%起こらぬ。

次に私がセンターラインオーバーのトラックの話をしかけると、広瀬様は大慌てで「そんなのはなかった」…と。後に現場検証を何度もしたが、広瀬様の位置からはカーブのセンターラインオーバーは見えない。その上携帯電話に夢中で事故にすら気づかれていなかった。それでは何故嘘を。
同時に警察官は新一言記載の如く(人間違いを装い)「お前の言うことは聞きたくない、外で一人で喋れ」で口封じをされた。この件になると両者が慌てた謎もある。

⑯警察署をでてからハイ気分(陽気気分)から感情は怒りに変わっていた。同時に、何故ブレーキの効きが悪いかの実験をした。その後も学校につくまで、本来推定で止まる位置よりも1メートールか1メートル弱前に進んだ。例外なしであった。ブレーキ異常があった。

⑰帰路は怒り心頭となり。車で事故死を狙った。いわば自殺である。だが大義がいる。そこで、ブレーキが行きがけの状態ならば必ず事故になるようにスピードをだすと同時に工夫した。二号線バイパスか高速道路利用したか忘れたが、後者ならば80~100キロメートル前後たしたような記憶もあるが数値はさだかではない。
数値は、その頃、大学時代の恩師・後藤峯雄先生がアメリカで大学教壇に立っておられ、その事故直後頃のハガキで、私の事故を知っていたかのように、先生が高速を100㎞でぶっとばしました」か何かがあったような記憶があるのでその数値に引っ張られている可能性がある。
なお先の行為の前に独り言。「こんな卑劣なことをされるならば、やれ。帰りはスピードを出す。行きがけのブレーキ状態では確実にどこか(道横の崖か何かに)でぶつかり死亡だ。何故ならばブレーキが正常な状態と想定して運転をする。行きがけの如くならばどこかで大事故になろう。他人を巻き込まず塀とか崖とか…で」と。ただし善良な市民は巻き込まない、と。これは確実に独り言でいった。
所が、授業後の帰路は全箇所でブレーキは確実にきき、推測通りに減速され、推測通りの箇所で止まった。そして生き残った。

⑱その後で広瀬健二氏が「むち打ち…となり人身事故である…」と言われたが、当時、車にぶつかったのにも気がつかず、携帯電話をしていた…。さらにコツンである。たまたま、私の車のミラーが何かに当たり壊れ派手に見えるがしれいていた。私の車の修理費は全部で28800円である。(領収書デジタル保存箇所=http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=8456)広瀬様の車は私の車よりも傷ついていなかった。当時は広瀬氏の傷事態はよく分からなかった。B様の車は無傷であった。A様は途中で消えていた。

当時、私はJA車保険に加入のためJAに聞けば、幾ら支払ったかが分かろう。その額は何か意味をもっかもしれない。私はまだ数値は聞いていない。正直に言って、私は後に、美作市で(美作市市営バスに絡めて)保険金詐欺疑惑が登場したこともあり、より疑惑を大きくした。この件は新免昌和元市議会議員がインタネットで保険金詐欺疑惑とも思えるやり方の人名の実名と所在地を明記されていた。「美作市では市に絡めて何故交通事故が多いのか」と。
当時の記事は残念ながら本日はインタネットでは見当たらなかったが、新免氏は自宅住所番地や電話番号も公開されているため聞けば分かろう。「Aera」担当者は昔、安倍昭恵の件で新免氏にインタビューをしていたので、新免氏の顔などは覚えていよう。これらから、保険金詐欺を後にも疑うように持って行かれた。
また当時も精神疲弊の最中で、思ってもならないが保険金詐欺や当たりや類いの逆をやって…と。別に依頼者から小遣いか仕事をもらって、と。
こうした事は思ってはならないが、正直な感想であった。だがそうではないことを願っている。すると何だろうか。

その後警察に即、スピードなどの訂正の手紙を郵送した。


この事件は、催眠、ブレーキへの細工、…何人かの共謀による刑事事件が本質。
事件は道交法よりも、刑事の殺人未遂罪(もしくは業務上過失致死未遂罪)、後に車乗りを遮断されたことから業務妨害、(私の脳への)傷害罪である。
更に、A様かB様か広瀬様が、事前に誰かに何らかの工作を依頼されていたのを告白すれば、もはや主たる問題は道交法ではなく、計画的な危害目的で行われた刑事犯罪事件となる。
私はA様が正直に話してくれることを期待している。三人の内一人でも依頼された事項を告白すれば全貌解明となる。あるいは様々な所で人が絡んだので、誰か一人が裏事情を話せば芋づる式に全貌が明らかになる可能性がある。
「人間違い危害」から、最近は「お金」「(私の許可なくしての)CM(利用)「利権」が強調されている謎もある。

この事故以降に、田舎の業者との対立工作がなされたが、この頃(1997年頃)は、写真現像・プリントは原則湯郷のSフォットスタジオ(スミレ)で、それ以前は湯郷と林野にある大岡さん、周匝にある山本写真店でも世話になったが、後に楽しいのでS(スミレ)一本となった。
ただし、パソコンなどは仕事用のため、市販のものはスペック上無理で、後にはBTO型のオーダーメードとなった。
自転車は湯郷の下山自転車中心(鏡野在住の姉が子どもの自転車を下山で購入し、その中古をもらった関係で下山となる)で、コピー機類は林野とも関係のある津山の日笠さんで、食材はマルイさんなどで、文具は林野の小坂さんでも世話になり、紙は林野の紙かまだで、メガネは林野のアラキさんで(ただし、1989年頃購入したメガネが良いメガネのため、一度の適正レンズ交換後は一度も修理も買換も必要なく、ご無沙汰をしている。)生活資材は豊国腹のナンバさんで…であった。リオがあった頃は何度も行っていた。みんな覚えていよう。
127万円余りかかったトイレ工事は西本電器さんで。(最近縁のない理由は昨日・2023/08/09催眠で喋らされたため、全貌というほどではないが後日全面公開)

研究の一部も田舎の業者の生き残り…で共同資材購入や行政による経営指導講座開設…の論陣や、何とかせよと、ゴーストタウン化していく林野の街や津山の町並み(旧商店街)も写していた。真逆の工作開始がこの事故後からであろうか。
尚、湯郷に吉本が来ていたのは多分私との絡みもあろう。当時の社長(あるいは実権を握っていた頃の)中邨秀雄氏は関学先輩であった(関学は同窓生の繋がりを強調する大学である)

海外などでは、私への警備問題があるように見受けられる。交通問題も同様と言われても、私を車らか遮断するには、母などを通じて、車購入代金は出せぬと一言言わされば、無収入となった私は車には乗れぬという単純な手があったはずである。

この件について、催眠独り言で喋らされた内容は、新一言number43参照。

2023/08/12 追記

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2023/08/13 夕方頃正式公開予定(現在は下書き段階)
新一言number43・謀略の嵐―1997年1月の交通事故と村(催眠言動公開)

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/2023/08/11/2579/
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2023年8月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA