【政経】№100・日本のフィクサーME・パート2付録編③・2013年訪中の経緯―1

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気が向けば一言【政経】№100・日本のフィクサーME・パート2付録編③・2013年訪中の経緯―1

(概要)訪韓の前に中国を訪問することになった経緯を今回記している。登場人物は菅直人、野田佳彦、温家宝、習近平、オバマ、内田満、市川房枝…などである。訪中目的は①原稿の関係で鑑真和上の足跡追い、②米中接近の画策、③尖閣国有化問題での反日感情緩和…。

(更新履歴)2018/09/28 12:23。13:17=最後に寒山寺の浜田隆政撮影写真リンクを追記。


先日(2018年9月24日頃)、早大から『西北の風』なる交友広報誌が届いた。表紙の写真は第十七代総長・田中愛治氏{1975年早大政経卒:1985年オハイオ州立大学で博士号取得(Ph.D,政治学)}と前総長・鎌田薫氏{1970年早大法卒、76年早大大学院博士課程修了}であった。

私が早大大学院政治学研究科に進んだ頃は、田中愛治氏はアメリカに進学しており、入れ違いとなっていた。
尚、田中愛治氏の父は戦後の日本三大フィクサーと言われた田中清玄氏である。他方、私は〝日本のフィクサーME〟と自称している。前者がスーパーマンならば、後者はコッペパンマンである。こうした奇遇はようやく表と裏の世界が統一する前触れならば有り難いのであるが。

2013年の中国の旅には母校も関係してくる。それも早大のみか、関学まで関係してきた。2013年12月の訪韓の際の器財故障や、車転落などの話に入る前に、同年5月の中国の旅について書かなければならない。
何故ならば事故原因の一つが、この訪中にあった可能性もあるからである。


中国を訪問する目的は三つあった。
①私の著作『旅に心を求めて―懐かしきの心を求めての旅(鑑真編)』補強のため、鑑真和上の足跡をおうことにあった。鑑真と言えば、一番目に揚州、次に西安である。しかし、一番目の揚州はツアーがないに等しかった。次に、西安であるが予算の関係と、②の目的もあり、三番目の候補地・蘇州を含む、蘇州~杭州~上海となった。(実際に、蘇州の寒山寺には鑑真和上像もあった。)

②私の生涯の政経の目的である世界連邦樹立に向けて、米中接近を図ることであった。そこで、北京か上海を含むツアーも必要であった。

③これは後で、分かったのであるが、尖閣列島国有化を契機に起こった、日中の感情的摩擦への対応というミッションである。


今回、関係するのは②と③である。
まず、③から記す。


早大大学院時代に、市川房枝氏に会いに行き、二人で長時間話をしたことがある。そのときの選挙参謀が菅直人氏であったと思う。もっとも、このときには菅さんには会わず、市川房枝氏と紀平禎子氏と会っただけである。市川房枝氏と私を二人きりにしては、何かあったならば困ると、紀平氏が会談していた横にあったコピー器で作業をしながら、ときどき話をしかけてきた。紀平禎子氏と言えば、警察官僚で有名な佐々淳行氏の姉である。

菅直人氏とは面談はしていないが、後に、私の岡山短大の件の被害救済依頼で菅直人氏(総理在任期間 2009年9月16日 – 2010年1月7日)にも書留で救済依頼をだしたことから再度、菅直人氏との縁が始まる。
以下、『日本のフィクサーME(上巻)』から引用する。
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ただ、昨年(二〇一〇年)九月に、この時の提言を言わされたことがあった。すると、その数日後に 尖閣諸島で中国漁船衝突事件が起こった。確か二〇一〇年九月七日だったと思う。そこで、今度は尖閣列島問題で提言をまとめ、日中間を上手(うま)く収める羽目になった。だけれど、その後で、日本政府首脳の一部が余計なことをしてくれたので、予想外に長引いたけどね。そしてやっと日中関係が安定してきたと思ったら、今度はロシアのメドベージェフ大統領の国後島(くなしりとう)訪問だ。昨年の十一月一日だったと思う。今でも後悔しているよ。尖閣列島問題解決への提言の後で一言(ひとこと)言ったのがまずかったとね」
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このときに菅直人氏に紹介されたのが、温家宝首相であった。そして菅直人氏と温家宝首相との間に入り、幾つか調停を行った。今考えれば不十分なところもあり、『日本のフィクサーME・パート2』でより精緻(せいち)なものにする予定でいる。

同時に習近平氏が2009年12月14日から17日に来日したときに、TVから習近平氏の姿をじっくりと拝見させていただいた。恰(あたか)も、次の国家主席には習近平氏がよいだろうと、中国の指導部(胡錦濤国家主席・温家宝首相…)が私に言ったが如(ごと)しに。
習近平氏(当時国家副主席・現在の国家主席)が天皇表敬訪問は2009年12月15日であった。その時の経緯を『NEWS ポストセブン』は以下のように書いている(私には真偽不明であるが、参考までに掲載)。

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…習が必死になってこだわった理由は、中国国内の政治にあった。当時の習は党内で序列6位。ポスト胡錦濤世代の中で最も高位にあったが、後継者としての地位はまだ完全に固まっていなかった。ライバルである序列7位の李克強副首相(現首相)に逆転される可能性が僅かながらあった。


習近平氏 2009年の訪日で20分の天皇表敬訪問にこだわった理由
NEWS ポスト セブン 2015.05.26 07:00
https://www.news-postseven.com/archives/20150526_321676.html
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 ひょっとするとこの頃から中国に行くことが決まっていたのかもしれない。しかし、具体的に話が進行するのは野田政権からである。

 野田佳彦君(第九五代内閣総理大臣)は、1976年に早大政経学部政治学科に進学しており、私は1977年に早大大学院政治学研究科に進学している。彼は留年していなければ、1980年卒業であるが、他方、私も1980年に早大大学院政治学研究科を修了している。もっとも、実際は1981年まで早大の図書館を拠点に東京で勉学に専念し、早大内でも法学研究科の諸君などとも研究会をしていた。貧困であった私は、一番良い商売として、学部学生の試験監督をしていた。よって、野田君の学部時代の内三年間以上は彼の試験監督をしている。更に、彼の出身ゼミを調べていないが、同一ゼミとか親戚ゼミの可能性もある。

私が大学院生の頃試験監督をしたと思われる政治家は、大塚耕平君(政経学部卒:1983年卒)、岸田文雄前外務大臣(法学部:1982年卒)、稲田朋美前防衛大臣(法学部:1981年卒)などである。
また、内田満(うちだ みつる、1930年1月4日 – 2007年1月26日)ゼミ門下生とすれば、「アントニオ天谷の 『ホリデー・ヴォイス』」によれば、久和ひとみと江川紹子氏、更には寺島実郎氏などがいるそうである。(http://mind-body-younger.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-7f6d.html)。

大学院の内田ゼミ後輩には吉野孝君(早大政経学部教授)、ゼミ同期生には今村君(早大社学教授)などがいた。それと岡山でも腐れ縁のあったゼミ先輩A氏(某大学講師)、更には能開大岡山で私の代役をつとめてくれたゼミ後輩H君(現在某学校法人理事長)などもいた。ゼミ同期生には、世話になったK君やバイト紹介をしてくればS君などもいた。インタネットで名を公に積極的にしていない人の場合には略号で記した。


さて話題を元に戻す。
野田佳彦君が2012年9月11日に尖閣列島を国有化する。それを受けて、中国で反日暴動などが起こる。どうも、その対策として、日本に対する中国の人の感情を緩和することも私の裏の使命の一つだったようである。

具体的に中国行きが決まるのは2012年である。2012年11月か12月にゆく予定でいた。ところが、母が危篤となったり、姪の結婚式が重なったりして決定が伸びていた。そのうちに母が2012年11月27日死亡し、同年の中国行きは延期となった。


次回は、当時、多くの政治家が私を親中派と何故思ったのか。また、親中派と思われていた私が、今、何故オバマ・アメリカ前大統領などと親しいのか…などを記そう。一部解答を記せば、私は一貫して党派中立・宗派中立であり、親●●派とは無縁である。当時は②の世界連邦、少なくとも平和のための新国際政治・経済秩序つくりを考えていた。当然、米中接近を画策?した簡単に言えば、米中に歩みよって貰(もら)わねばならないと考えていた。
また私は親米云々(うんぬん)ではなく、ミスター・オバマなどを我が友と言っているし、実際にそうだからである。

【参考】(13:17追記)①の寒山寺に関する浜田隆政撮影写真は下記。写真物語館・世界の絆・中国への旅―2日目。同ページには同寺を舞台にした蘇州夜曲の歌も収録。http://takachan1.xsrv.jp/kizuna3/program1.html