【回想】No.270:1981年回想・尾野作次郎氏との出会い―ユニークな採用試験

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気がむけば一言・【回想】No.270:1981年回想・尾野作次郎氏との出会い―ユニークな採用試験


【更新履歴】

2021/12/04 23:39下書掲載

2021/12/07 10:56 正式公開



1981年、真備高校時代には何人かの人と面白い出会いがあった。
先に名前だけを列挙する。
尾野作次郎氏(岡山進研予備校名誉校長)、福武哲彦氏{福武書店(現ベネッセ)創始者・後に知ったが私の父の岡山師範時代一年後輩}、岡映氏{部落解放同盟副委員長、分裂後全解連委員長}、白陵高校校長{創始者・三木省吾氏と思う。兵庫県高砂市}、桐山公雄{関西高校校長、岡山中学(・高校)初代校長、後に岡山進研予備校校長}などである。

もっとも、1981年だけが特別ではない。
大学院時代でも、市川房枝氏とも一対一で長い時間会談をしている。紀平悌子氏(参議院議員、警察官僚・佐々淳行氏の姉)、内田満先生{大学院時代の恩師、当時自民党顧問、ゼミ門下には寺島実郎氏など…}、研究会では水島朝穂(現早大教授)…各大学の有名教師群{内山秀夫慶応大学教授、渡部保男(後の)ICU学長、飯坂良明学習院大学教授…。また学外では岡野加穂留(後の)明治大学学長}等等である。
さらに出会っただけならば、試験監督の関係で、当時の政経学部の学生であった、野田佳彦君、大塚耕平君、法学部では岸田文雄君、稲田朋美氏などがいる。

著名人との出会いは、1984年の駿台事件後に激減し、1988年1月駿台を辞職して家に監禁されたためやんだだけである。もし、家に監禁されなかったならば、どの程度の人脈を築いたであろうか。


さて、本題に戻る。
1981年の出会いの中で尾野作次郎氏だけを今回取り上げることにする。
というのも、尾野先生の採用試験が随分気に入ったからである。
二度あったが、特に、後者が面白かった。

尾野作次郎先生は、岡山県初の35才で県立高校校長になったとの噂(うわさ)を聞いた人物である。みかけは通常であるが豪快な人であった。
先生の晩年に斯様(かよう)なことを言われたと聞いたことがある。
「私は長生きがしたい。そこで長生きをしている人に、その秘訣(ひけつ)を聞いてくる」と言われて、本当に聞きに行ったそうである。

尾野作次郎先生との出会いは、1981年4月であった。
早大大学院政治学研究科を(一年自主留年をして)1980年に修了し、翌年も事実上の研究生活をしていたときである。バイト三昧の生活に参り、郷土岡山の学校の幾つかに手紙をだした。
正確には催眠型で突如、学校教壇を焦らされたのかもしれない。
手紙の宛先は、真備高校、岡山進研予備校、倉敷英数学館である。いずれも返事がきて、いずれも採用となった。
倉敷英数学館は労基法違反のオンパレードで教師がどんどん辞めたため、常時空きがあったようである。

だが、岡山進研予備校は福武書店(現・ベネッセ)が作った学校であり、人出不足ではなかった。しかし、私に返答がきた。一度会おうということで尾野作次郎氏と会談をした。
尾野先生が言うには、「政経の教師はもういる。空きはない。だが、君の手紙を読んで君に興味がある。そこで、空きはないのだが、君のために、一齣(ひとこま)増設をする。そこで、一齣であるが、来てくれ。交通費は出す」であった。

学校の一番重要な商品は教師である。それも価値を増殖し続ける商品(労働力商品)である。マルクスの言葉「剰余価値論」を借りれば、この労働力商品が富・利益の源泉である。当然、一番重要な投資である。
投資にはリスクを伴う。だが、そのリスクを警戒し続けると成功は不可能である。
リスクを頭に入れた上で、諸計算をして投資をするのが正道である
尾野先生は、空きがなくても、私用に講座を創設された。
この時点ではやや感心にすぎなかった。
ところが、次が凄(すご)かった。
というよりも気に入った。

一年間、この予備校と真備高校を掛け持ちで教師をした。翌年(1982年度)は駿台予備学校の教壇とこの予備校となっていた。駿台予備学校は前回記したように、駿台甲府高校の採用試験を受け、合格したため、私は駿台甲府高校専任と考えていたが、最初は非常勤講師であり、しかも駿台甲府高校ではなく、同じ経営者が運営している駿台予備学校にまわされた。
順調にいけば、予備校専任、また甲府高校へ移動も可能と聞いていた。しかし、当時は学生は今よりも少ないが、東大合格者が一年度で1500名を超えていた全盛期であった。当然、教師間の競争も激しかった。
だが、この激しい競争があるとは言っても、当面の金がいる。1981年よりは増大していたが、やはり研究費その他を考えると足りない。とは言っても、進研予備校でも、過剰負担となる倫社は整理をして辞め、政経一本としている。過剰負担のない教科を検討していた。

そこで、尾野作次郎氏に相談をした。
尾野先生が言うには、「(灘中学をモデルとしている)岡山中学用の塾をつくることにした。もし、君がその気があるならば塾の教壇に立たないか。(専門の政経はないため、算数である)」であった。
その塾は(東京の)四谷大塚をモデルにして作りたいと言っていた。そしてそのノウハウを遠方までいって仕入れてきたようである。教師類も同様の形で集められていた。
資本は全て福武書店からでていると聞いた覚えがある。
尾野作次郎先生と福武哲彦(当時の福武書店社長)が会談をして、新規授業として本格的にやると決めたそうである。岡山の四谷大塚を目指したのであろう。

同時に、岡山中学・高校が白陵以上になり、日本でも進学面でベスト10程度にはなると思われていたようである。なお、岡山中学校長であった桐原先生に呼ばれて岡山中学を見学にいったときには灘高校からスカウトされた人が教頭だったと思う。
塾類は東京で何度も教壇に立っていたため、慣れている。
そこで、尾野先生に聞いた。
「採用試験はどうなるのか」、と。

尾野先生は言った。
「採用試験はある。
採用試験は次のようにやる。
私がこれはと思っている教師がいる。
その教師の授業を一度みてくれ。
そして、君ができると思えば、即合格である。
君が無理と思えば不合格である。
一度、君がそれを見て判断してくれ。」
自分で決めてくれ、であった。

要するに、予備校講師などで模擬授業をして合否を決めるのは知っているが、その逆でこられた。
尾野先生がもっとも良いと思っている教師の授業を私に見学させ、合否判定を自分でしろ」とこられた。
この尾野流のやり方と、当時の進研予備校のスタッフに世話になったり、気に入ったりで、この予備校に長いをすることになる。

なお、この塾の教壇は次年度から超多忙となり、お断りすることにした。
と言うのも1983年度は、駿台予備学校が順調に授業数が増え、更に是非専任でということで(労働省所管)ポリテクカレッジ岡山の教壇にも立たされ(後に事実上詐欺と判明)、とどんどん仕事が増えてきていたためである。また、その翌年頃は岡山中学・高校からも専任になれと連絡がくる。

尾野作次郎先生は、2021年調べると、岡山朝日高校と岡山操山高校が分離する前の、1959年(昭和24年)同校の校長をしていたとの情報が入った。
何かに付け面白い(ユニークな)先生であった。約10年前に、この尾野先生が真備高校の理事もされていたと知った。


あの頃は、希望に燃えていた時期であった。
なお、駿台予備学校での激しい競争と書いたが、1983年度頃は学校名は無関係であるが、参考までに競争相手の出身学歴を記しておこう。
一人は東大法学部卒(関西文理学院にも出講)、一人は京大農学部卒(前田先生、別名杜先生)、一人は京大工学部卒業後に東大法学部を卒業した人と私であった。
なお、もう一人の先生は倫社に移られたが京大人文科学研究所…と聞いた。また、模試の関係で、政経のコンタクトをとっていた東京の政経教師も東大卒であった。彼らとの競争であった。

これらの話は拙著『求め続けて』第二部参照。真備高校時代は『求め続けて』第一部を参照。これから掲載するのは第三部であるが、第一部と第二部も再度HPに掲載し、その後で出版を検討している。
なお、駿台ベネッセ共催模試のきっかけは、私が両社を仲人をしたのがきっかけのようである。ベネッセ前身福武書店での模試監修をしていた頃に、駿台模試も作成しており、駿台文庫の職員から進研模試や福武書店のことを接待され何度か聞かれたことがあったからである。


30才前後でも上記の私が何で田舎で…親戚・近所の…小さなことばかりの処理を延々とさせられるのであろうか。しかも、斯様(かよう)な馬鹿馬鹿しいことの処理役はもう34年目となる。
もっとも、テレビ・イタネットその他を通じて、2004年以降に世界に膨大な人脈をつくることになる。だが一円にもならない。それが今公開中の『日本のフィクサーME』の世界である。