新一言№88【村・トラブル】和代家と中田組合問題、土地などの件(その1・自治会費等)
【構成】
2024/04/23 18:36 掲載
表紙の写真
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村の位置を記す。
日本は国→都道府県→市町村となっているが、その下に行政組織ではないが、団体自治の性格をかなり残した組織AとBが存在している。隣組制度の名残も幾分あり、歴史的には必要不可欠であった時代を超えて、時代の桎梏(しっこく)となっている物である。
Aは自治会とか町内会の名が多い。Bはその下にあり、組合・ブロック…など様々な名で呼ばれている。
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我が村ならば、岡山県美作市位田中田となる。
位田は大字であり、それに該当して「位田自治会」なるものが存在する。構成は110世帯500人ほどであろうか。
その下に「中田組合」、正確には「中田講組合」なるものが存在する。
防犯灯設置などは「位田自治会」が請け負っている。(本当は行政の仕事で)
中田組合は大体12世帯で推移することが多い。
現在は10世帯であるが今後は不明である。
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自治会費は年12000円、組合費も12000円の合計24000円とビックリするような高い金額である。
全国平均の7倍、美作市の平均の倍以上であろうか。
そこで、和代家の娘さん(大阪のヨウコさん)などから愚痴を聞いたことがある。
この家は、私が物心ついたころからは、和代小母(おば)さんが管理していた。和代小母さんとその母の二人暮らしであった。小母さんの母は1991年に亡くなってからは小母さんだけであった。幼少の頃から、私を大変かわいがってくれていた。
ただし、娘さん等(ら)は物心が付いた頃から家におられず、2005年頃までは挨拶以外にしたことがなく、知らぬ人であった。
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長く小母さん一人であったが、私がポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)を辞める頃に息子さん(ヒトアアちゃんと私が呼んでいた)が戻ってこられた。
やがて、2000年を少し過ぎた頃、和代小母さんは何等かの施設か病院に行かれたようである。そしてヒトああちゃん(「一二」さん)のみが住まわれていた。
2008年に一二さんも亡くなられた。
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2009年に、私が中田組合の組合長となった。それ以前も、(大阪の)ヨウコさんなどから組合費・自治会費が高い…という愚痴をきかされていた。厄介なのは、和代さんの娘(ようこさん)も、跡取りの孫(一二さんの息子・フジオ君)も、共に、中田組合員の前では借りてきた猫のようにおとなしい。だが、私にはいろいろと…である。
ちなみに、ようこさんは大阪に、フジオ君は広島に住んでいる。和代小母さんは美作市大原にある施設にいるのかと思っていたが、後に、美作市の病院と言う噂も聞いたことがある。
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そこで、私はフジオ君は広島で町内会費、ヨウコさんは大阪で町内会費のため、組合費・自治会費をとらぬようにしようと考えた。近所のボス(親戚のボス格の満伸さん)に相談して「そうしよう」となり、私は一気に動いた。
和代家の位田自治会から脱会手続をした。同時に組合費はとらぬことにした。組合長権限で可能と思っていた。その趣旨を和代家に伝えた(ヨウコさんか、フジオ君かは忘れたが、喜んでいた。)
ところが、組合員から苦情がでた。
組合長と満伸氏だけで決めるのはおかしい、と。それもそうである。
そこで、臨時の中田組合総会を招集した。
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ここで意見を言い合い、多数決をとると、「和代さんが生きている間は、和代さんに何かあったときに組合で対応せねばならないため、それまではもらう」が多数をしめた。
Twitterに記載したように、「民主主義とは自分の思うようにはならぬ物」である。
そこで、その趣旨をこの家の人に伝えた。どちらかとは言わぬが、ブツブツと文句「せっかくやめたのに…」とか「位田の自治会費・組合費は高い」と言われていた。もっとも、村人を見ると豹変(ひょうへん)するので参ってしまう。恰(あたか)もニャーオンというが如(ごと)しに。
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こうして、自治会に再度入会手続に行くと、自治会役員があきれていた。私も面倒であったがどうしようもない。
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次に中田組合長になったのは2019年である。和代小母さんは2011年に亡くなられたが、このときにも、まだ組合費・自治会費をとっているのでどうなっているのだろうかと思った。だが、もう組合員や自治会員ともめるのはかなわないし、肝腎のヨウコさんやフジオ君が他の組合員の前では豹変(ひょうへん)するので、私一人が貧乏くじばかりひくのはかなわない。
それ以上に、和代小母さんの葬儀のときには、正かあそこまで…とは思わなかった所まで、組合員がやっているので、特に何も言わずにいた。
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あそこまでとは、和代小母さんが死亡したときには、ヨウコさんは大阪で、フジオ君は広島にいた。遺体は、近所の従兄弟・明が対応したようである。その晩に電話があって、私も和代家にかけつけた。
お子さんとお孫さんは翌日に来られた。中田組合の方で遺体には対応となっていた。
それはそれで良いのであるが、他人(ひと)事のようにも思えた。
お孫さん・フジオ君などは「僕は広島から、かけつけてきた。すごいでしょう」的な雰囲気で、一言も「中田の皆様にはお手数をかけました」などは言われなかった。
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だが、それ以上に、ヨウコさんやフジオ君には中田組合の大きなメリットがあった。大阪や広島で日常の生活を送れたのであるから。
通常は、大阪か広島に老婆を引き取るか、それともフジオ君かヨウコさんが美作市位田に戻ってきて(住居移転して)対応するか、…で悩むものであり、老いた祖父母や父母を抱えていると参ることが多い。(もっとも金があれば、専門業者に完全委託という手もあろう。)
私も母が老いたときは大変であった。姉も同様であろう。
母が死ぬ前に言ったことがある。
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「おかあちゃんが死んだならば、中田組合でいろいろあるぞ。しかし、お前がお母ちゃんの世話をしたことを思えば、大したことはなかろう」と。
母にすれば名言であった。然(しか)りである。
母は認知症とは思えぬのに激しい認知症の振りをして暴れ回っていたからである。(病院で認知症の検査をさせたが検査の経緯は認知症ではないとしか思えなかった。医師は見ての通りとしか言わなかった)。
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いつか、母が我が家にいたときの模様を具体的に記そう。姉も全部は知らぬであろう。
一度、我が家の庭で母が木を燃やしたときには炎が二階まで見えた。母は驚き動けなくなっていた。私は大急ぎでバケツで風呂の水やホースで水をかけ続けたが火は止まらなかった。
そのときに近所のボスが笑いながら「ここまでとは思わなかった」と驚いていた。家の中ではまだひどかった。
それでも私が認知症と判定しなかった理由は、あきらかに、誰かがガソリンではないが灯油か何かをまいて火をつけた跡があったからである。
母ではない。
私は満伸氏を疑って「満(み)ちゃんでてこい。あんたが火をつけたのか」と怒鳴ると、笑いながらでてきて「それはわしではない。ともかく、そこまで燃えたならばもやしてしまえ」であった。
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母の段取りによる燃え方ではなかった。なお、この木を切った枝などは、金銭委託していたエツジ様がすることになっていた。だが、いつまでも来られず、何度電話しても留守か何かで連絡がつかずに、葉書か何かをだしてようやく連絡がついたと思う。
そして、もう数日後に処理にくると約束していた矢先に燃えたのである。だが、誰がしたかは今は不明としておく。しかし、母の段取りでは出来ない燃え方であったことを強調しておく。
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ちなみに、母が姉の家にいるときに一度呼ばれた。母を見ると別人の如く、おとなしい老人の優等生であった。姉が「母は姉の家にいるときはいつもこうなの」と言っていた。(私も多分そうだろうと思った。)
これを正に狸ばばあと呼ぶ。
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また、母が私を困らせるために、故意に台所で倒れたときがあった。もの凄い倒れ方であった。バタン…と。私は確実に骨が折れたと思ったが、何ともないようにみせた。あれは誰かに依頼されたのであろうが、死ぬ覚悟もせねばできないかもしれないくらい凄(すご)かった。何ともない振りをしたが、実際には骨にヒビなどが入っていなかったという保証はない。誰かに依頼されたような凄い、思いもつかぬ演技が終始続いた。
女性、特に母親は度胸がある。思い返しても凄かった。しかも、その前に脳梗塞で入院してもいた。危険極まりない演技であった。
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さらに、毎日、挑発の言動であり、一度録音した内容を流すと近所の誰かが笑っていたが、あんな比ではなかった。正に、アンサリバン女史が、初期のヘレンケラーに対応するが如(ごと)しであった。
だが村人などがいれば即豹変して通常の老人に早変わりをする。
そこで、誰も私がどういう状態かは分からないとくる。
今、考えれば映画説・テレビ説での演技だったのであろう。
こういう演技を数年した後で、母が「おかあちゃんが死んだならば、中田組合でいろいろあるぞ。しかし、お前がお母ちゃんの世話をしたことを思えば、大したことはなかろう」と言ったことを再度書こう。
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一番参ったのは、母が倒れて動かぬときに、本当に脳梗塞で倒れたのか・演技なのか不明で参ったことが何度かあったことである。本当ならば即119番しなければ命に関わる。他方、嘘(うそ)ならば、本当の急患がいたときに、救急車を要請して、もし救急車がなければ他の人の人命に関わる。そこで、2010年1月4日頃に倒れたときには、近所に援軍を求めた。理由は演技ならば、近所の人がくれば豹変(ひょうへん)して、元に戻ると考えたからである。
だが、近所の看護師さんの、「救急車を要請した方が良い」というアドバイスで救急車を要請した。いつも、こういう不安も抱えていた。その他にも、90才を超えた母が死んだふりを何度かしたが、これにも何度も参ってしまった。書けばきりがないため、私の母の話は別にどこかでいつか書こう。
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だが、こうした母の対応以上に、母が死亡したときに中田組合の皆様に迷惑がかからぬように、更には、母の遺体の処理で迷惑がかからぬように配慮するのに大変であった。ちなみに、姉には「中田組合に迷惑はかけたくないので、遺体は(可哀想だが)我が家には戻さずに、葬儀会館に直に移動させる」で話はついていた。家での受付もせぬ予定でいた。
葬儀会館でも母関連の親戚とややこしくなっていなければ中田組合ではなく親戚関連に頼もうかとも思っていた。そのくらいに、組合や村には世話にならぬように検討していた。
しかし、姉が、真夜中に「母が死んだ、我が家に遺体を移送…」であり、もう、ここでの言い合いは無理となり、母の遺体を迎えることにした。
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そして、ほとんど徹夜状態のまま、組合長や従兄弟の明、親戚のボスにも連絡をせずに、一人で母の遺体を置く場所などの作業をしていた。
やがて、姉夫婦が応援にかきつけたか、それとも母の遺体が早かったかは覚えていない。
そして、誰もが起きた頃(多分、午前8時頃)に組合長と、親戚のボスと従兄弟の家に電話をした。
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和代さんの孫・フジオ君や娘・ヨウコさんは、中田組合を頼りにすることにより、こうした段取りや、日々の拘束から、完全に解放されていた。
私の場合には母がいつ死亡しても大丈夫なように徹底的な配慮を余儀なくされていた。私が大阪に行くときですら、母の体調を医師などに確認して大丈夫なときに、その上で必ず姉に事前に連絡をして姉のところにあずけ、同時に一日何度も我が家での確認をし続け、何があっても即座に病院や姉のところにかけつけられるように手配をしていた。宿も可能な限り、高速バス停のすぐ側(そば)を優先し、気のやすまる暇もなかった。
葬儀対応よりも、こうした毎日の何かあったときの構想と準備、それも数年以上に亘(わた)る何があっても対応できる配慮の方が大変であった。
フジオ君やヨウコさんは、中田組合をあてにしたことによりこうした気の休まる暇もない配慮から解放されていた。
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よって、もう組合費・自治会費の件でまだとっているのかとは聞かなかった。だが、幸いに、私が二度目の組合長になったとき(2019年度)を最後に、組合費・自治会費はもらうことはなくなったと思う。
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話を元に戻そう。
今度は和代家内にある中田組合の倉庫の件である。
これも真逆である。
私が2019年組合長になったときに、この倉庫のある場所も和代家に返そうと提案したが、ある一言を聞いて、一切何も言うのを止(や)めた。
もはや、私の出番ではない。たった一言であるが致命的な一言であった。
この話は次回(多分、明日=2024年4月24日)掲載しよう。
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24-114-1【🥴催眠】
本日起床後、和代家の話を催眠強制で食事も準備できず被害甚大。
①催眠は人権蹂躙、大犯罪
②民主主義とは自分の思うようにならぬ物
③契約は特別の定めがない限り、文書・口頭でも遵守義務あり
④和代家・組合・土地の経緯を🤡や母仲が良かった和代小母を思い、新一言№88に記す
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